翻訳|self
思考、意志、行為などの諸作用の遂行者をいう。哲学の課題は自我の探究であり、それはデルフォイの箴言(しんげん)「汝(なんじ)自身を知れ」への応答であるといえるだろう。ギリシアの哲学者ヘラクレイトスの「我は我自らを求めたり」ということばは、その応答とみることができる。この「汝自身を知れ」を真に体現したのはソクラテスである。ソクラテスは「無知の知」の自覚を通して、知を愛し求めるという哲学の地平を切り開いた。
しかし自我の問題が哲学の根本問題として登場したのはデカルトにおいてである。デカルトは方法的懐疑によって、けっして疑うことのできない「我の存在」に達し、そこに最初のもっとも確実な知識をみいだした。デカルトにおいて我は思惟(しい)する実体である。それに対しヒュームは自我を知覚の束にすぎないとし、自我の実体性を否定した。カントはあらゆる私の表象に「我思惟す」が伴うことができねばならないとし、経験的自我とは区別されるこの超越論的自我のうちに、経験の可能性の究極の根拠を求めた。この自我を実体とすることは否定される。カント倫理学においてこの超越論的自我に対応するのが、「我意志す」としての道徳的人格である。フッサール現象学は、自然的態度にある自我において隠蔽(いんぺい)されていたものを開示することによって、人間的自我の真実態が超越論的自我であることを証示する。それは自己忘却から自己を取り戻す試みであり、この自己省察こそが現象学である。現象学はそれゆえデルフォイの箴言「汝自身を知れ」に新たな意味を与えたといえる。実存哲学は自我の問題を実存へと深化した。それは死、不安、限界状況などの分析を通して、人間の有限性、「私がある」ことの神秘を示した。
自我の問題は今日、自我の自立性の崩壊としてとらえられる。しかし自我の崩壊は、自我の偶像化からの解放とみることができる。「汝自身を知れ」という箴言が、人間に、神ならぬ身であることの自覚を促すものであるとすれば、それは同時に、自我を超えたものの承認を意味するであろう。今後とも、自我は哲学の根本問題であり続け、「汝自身を知れ」はつねに新たな応答を要求するであろう。自我とはそもそもこの私であり、「私がある=私である」は神秘であり、驚異だからである。
[細川亮一]
心理学における自我egoの概念は、かならずしも明確なものではなく、また多様な意味に使われている。一般には、いろいろなものを感じたり、考えたり、行動したりする自分というものを自覚するが、この意識したり行動したりする自分の主体を自我という。しかし、自我という概念は、このほかにも特定の意味をもつものとして使われている。そのなかでもオーストリアの精神科医フロイトの自我の概念は独特の意味をもっている。
[春木 豊]
現にここにある自分は統一的な全体として存在しているものであるが、その自分について分析的、反省的に振り返ってみたとき、たとえば、かつてアメリカの心理学者W・ジェームズがいっているように、知る主体としての自分と、知られる客体としての自分に分けることができる。前者を自我といい、後者を「自己」と区別することがあるが、自我と自己のことばはかならずしもこのように明確に分けて使われるとは限らず、混同されることも多い。
主体としての自我そのものが何であるかさまざまな議論があるが、それは、自分の意識や行動の主体として直接に経験されるものそれ自体であるとする説、あるいは自分の意識的・行動的活動を統一し、統制するものが必要であるとして、考え出された概念であるとする説などに分けられる。
このような自我は、自分を自律的に統制し、意識や行動を整理し、環境の状況に応じて自分を適切に積極的に行動させ、自分の行動に対する反省を行い、自らの行動の価値規準を維持し、自己と環境との調和を図って、自分であることを維持するための機能を果たしている。
[春木 豊]
フロイトの意味した自我の概念は、彼の人格論の一部を構成するものとして使われている。すなわち、人格は本能的欲求に基づいて行動するエスEs(イドid)、社会的規範に従って行動する超自我、それにこれらの欲求を統制し、現実の環境に適応すべく行動する自我から成り立っているとする。ここにおいては自我は、人格の中軸にあって、全体の調和、統制を図る機能をもつものとして考えられているといえる。スイスの精神科医ユングはさらに、意識の中心にあって、それを統制しているのは自我であるが、無意識を含めて、両者の全体を統制するものとして、自己の概念を用いている。
このような自我は、年齢とともに発達し変容していくし、また文化的な環境によって、さまざまな様相がみられる。
[春木 豊]
『北村晴朗著『新版 自我の心理学』(1977・誠信書房)』▽『梶田叡一著『自己意識の心理学』(1980・東京大学出版会)』
〈我(が)〉という漢字は,もとは〈ぎざぎざの刃をもった戈(ほこ)〉を描いた文字で,〈峨〉と同系の語であったが,音の共通性から自称の語として用いられるようになったといわれている。今日の中国語でも,自称には〈我wǒ〉が用いられる。日本では,自称は古来〈わ〉や〈われ〉(あるいは〈あ〉〈あれ〉)であったため,それらに〈我〉が当てられたわけである。一方,〈自〉という漢字は鼻をかたどったもので,鼻を指さして〈自分〉を示すことから,自分の意に転用された語であるという。このことは,〈自我〉という語が,本来,単なる主体を表すのではなく,そこに主体の主体自身への再帰的指示が含意されていることを示唆している。だからこそ,その語は,擬人的表現などの場合を除けば,自己意識をもったものにしか使われないのである。
ヨーロッパでも,たとえば現代英語のIは,古くはicであり,ドイツ語のichなどと同族の語であって,ラテン語のエゴegoやギリシア語のegōにさかのぼることができる。ところで,これらの言語では普通,主語の人称は動詞の変化で示されるから,egoやegōという語は,話し手がとくに自分を強調する場合にしか使われなかった。このことも,自称のための語が,話し手がなんらかの意味で自分自身を指示するところから生まれたということを物語っている。自分を強調するということが,すでに自己への再帰的指示を含んでいるはずだからである。こうして,たとえば日本語では,話し手が自分や自分の属する集団をそれ以外の〈あちら側〉と対比してとらえるなら,そこに〈彼我〉ということがいわれ,公共に対するものとしてとらえるなら,〈私〉ということがいわれるわけである。〈余〉などは,そのニュアンスはさまざまながら,〈他は知らず,少なくとも自分一人は〉といった意味の語であろう。
だから,自我は,机やいすのように世界のどこかにあるわけではない。それは,初めから物の名称ではないので,ただわれわれの意識の働き方のうちに求められるほかはないのである。哲学史上でも,自我の存在が〈われ思う〉に結びつけて考えられたり(デカルト),認識の統一原理として論理的に要請されたり(カント,フッサール)したのも,そのためである。なお,主体が主体自身に再帰的にかかわるということは,主体がみずからのうちにある同一性を認めるということである。何の同一性ももたないものは,〈おのれ〉(これが今日の〈おれ〉になった)の名に値しないからである。しかし,その同一性も即自的なものではありえず,時間的に経過し変転するそのつどの体験を自分のものとして自覚的に引き受けるところに生ずる理念的同一性(フッサール)なのである。たとえば,責任の主体としての自我がまさにそのようなものである。その意味では,自我はきわめて実践的な概念ともいえる。
→コギト
執筆者:滝浦 静雄
常識的にいえば自我とは自分の存在そのもののことであるが,自我が個人の人格の一部に過ぎず,はじめから存在しているわけでもなく,いったん形成されたあとも分裂,拡散,崩壊する不安定なものであることを説くのが精神分析である。人間は生まれたときはイド(エス)だけであるが,イドの一部が外界と接し,自我となる。外界とはまず一般に母親であるが,自分について母親がもつイメージ,母親に規定された自分が自我の最初の核となる。その後さまざまな人たちとの関係を通じて自我は拡大してゆくが,どれほど拡大しても,自我となるのはイドのほんの一部に過ぎないし,いったん自我に組み入れられても,またイドに押し戻されることもある。自我は人格の統合性を保持し,現実適応を図らなければならないので,その妨げになるものはイドに留めおかれる。自我の不安定さは,このように自我に対立する広大なイドの領域を背後に抱え込んでいるためである。精神分析における自我は,主体としての自我と,その主体としての自我に見られる対象としての自我とをともに指しており,この点にあいまいさがあるとして,精神分析者によっては,対象としての自我を自己,自己像,自己概念,アイデンティティ,客体我などと呼んで区別することもある。しかしこの二つの自我は一体不可分なので別々の用語を用いると,あたかも技術者と彼が操作する機械のように別々のものと受け取られる恐れがある。本能が壊れ,本能的行動規準を失った人間は,人格の統合性を保持するのも,現実適応を図るのも,自分が何であるかということ,自分についての自分の規定,すなわち対象としての自我(たとえば〈おれは偉い社長だ〉)を意識的または無意識的に規準にするほかはない。統合失調症の場合のように,対象としての自我が崩壊すれば主体としての自我も崩壊するのだから,両者を別々の用語で呼ぶことには難点がある。
執筆者:岸田 秀
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…破壊衝動なら何かを破壊すれば満足するはずだが,われわれはある人に腹を立てているとき,皿でも茶碗でもその辺のものをぶち割ったところで怒りは収まらないし,その相手を攻撃したところで収まるとは限らない。怒りとは,ある人の言動によってわれわれの自我の安定を崩された,または少なくとも脅かされたと判断されるときに,その安定を回復しようとする試みであり,それが回復されない限りは収まらないのである。したがって,自我をもたない動物には攻撃行動は存在しても,怒りは存在しない。…
…彼はこの原子論的な言語観に基づき,世界の諸事実を記述する経験科学の命題と,もっぱら言語の形式にかかわる数学・論理学の命題を峻別した。また形而上学的な〈自我〉や価値・倫理などの伝統的な哲学問題は元来〈語りえぬ〉もの,言語ないし世界の限界の外にあるものとする。一見すると《論考》の哲学は,論理実証主義者の反形而上学的な科学哲学を先取りしたもののようであるが,じつは彼の真意は,人間の根本の生きかたにかかわる問題をあくまで尊重し,これらを〈内側から限界づけ〉て事実問題との混同を防ぐところにあった。…
… エゴイズムとほとんど同じ意味に用いられるエゴティズムegotismという語がある。エゴティズムは欲望や利益よりも,むしろこれらの担い手である自我egoそのものを常に念頭におく態度である。エゴティストは自尊心のために自分の欲望や利益を犠牲にすることもあるので,この点でエゴイストと区別される。…
…フランスの精神分析学者ラカンが1936年に提唱した概念で,これによって自我の機能の成立を説明した。幼児は生後6ヵ月から18ヵ月の間にこの段階を通過するが,その際,鏡に映る自分の像や他人の姿を見ながら,鏡像と自分を同一視し,自己の身体的統一感を体験する。…
…コギトはもともと〈考える〉とか〈意識する〉という意味のラテン語cogitareの一人称単数形にすぎないが,今日ではむしろ〈自己意識〉を含意し,精神や自我の本質を自己意識に見ようとする立場と結びつけて語られる。かつてデカルトが《方法叙説》(1637)の中で,絶対不可疑の真理を発見すべく,まずあらゆるものを疑ってみるという〈方法的懐疑〉から出発し,その結果〈そう考えている私は何ものかでなければならぬ〉として〈われ思う,ゆえにわれ在りJe pense,donc je suis〉の命題に到達し,これを〈哲学の第一原理〉と呼んだことに由来する(コギト・エルゴ・スムcogito,ergo sumはその命題のラテン語訳)。…
…学者によって定義が異なるが,一般には個人が自分自身を客体としてとらえたのが自己であり,そのときの主体となる方を自我egoであると定義されている。自己は人が主観的に把握した自分自身であるが,そのとき自分のこうありたいという願望によるものを理想自己と呼び,現実自己と区別したりする。…
… さて,治療の実際は,たとい順調にはじめられたようにみえても,早晩,患者の連想はとどこおるようになる。これは患者の自我のなかに意識的・無意識的な抵抗が生じることに基づく。この抵抗は,患者自身が認めたくない衝動を無意識へと押し戻した自我の働きと同一のものである。…
…唯我論,独在論ともいう。ラテン語のsolus(~のみ)とipse(自我)とをつないでできた言葉で,一般には自我の絶対的な重要性を強調する立場のことをいう。古くは実践哲学の領域で,自己中心的もしくは利己的な生活態度や,それを是認する道徳説に対して用いられたが,今日では認識論的,存在論的な見解をあらわす言葉として使うのが普通である。…
… 1904‐20年にかけては13の精神分析技法論を発表し,精神分析療法の基本理念を確立する。エス(イド),自我,超自我という三分割の心的装置論は,《集団心理学と自我の分析》(1921),《自我とエス》(1923)において展開され,自我の分析に比重が移っていく。《悲哀とメランコリー》(1917)と《制止・症状・不安》(1926)とは後期の臨床論文として重要である。…
※「自我」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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